わからないものを見る
「音で観るダンスのワークインプログレス」を巡って

振付家、ダンサー、かみむらめぐみ

次々と新作を制作しては上演することが当たり前になっている昨今のダンスシーンにおいて、音声ガイドをつくるためという特殊性はあるにせよ、同じ振付を3年にわたって繰り返し上演する「音で観るダンスのワークインプログレス」は、かなり珍しい形のプロジェクトだと言える。わたしは途中2回のワークショップへの参加に加え、3回の上演を鑑賞してきた。最終回の上演を中心に、この試みについて、晴眼者である一観客としての立場から感じたことを振り返っておきたい。

ダンスのわからなさについて

この「音で観るダンスのワークインプログレス」は、ダンスを見るということを見えない人とどう共有できるかを探るプロジェクトだが、同時に「コンテンポラリーダンス」をどのように言葉などに置き換えどう伝達できるのか、ということを考察する試みでもあるとわたしは受け止めていた。何らかの感情やストーリーを表現するために身体が動く、という前提を持たないダンス。一般化されない個別的な身体性に基づき、「上演の舞台」以上の前提のない場において踊られるダンス。つまり、そもそもどう捉えるべきかよく「わからない」ものが多大に含まれたダンスを、そのわからなさを保持したまま、どう他のものに置き換えて伝えることが可能なのか。

ダンスのわからなさというのは、このプロジェクトにおける振付の経緯からして始まっている。今回の振付は既存のものではなく、見えない人に音声ガイドでダンスを伝える方法を探るという課題に応じ、捩子ぴじんが振り付けたものだという。そして、それがあれば便利なはずの台本となる何らかの物語に基づいているわけでもない。つまり、内発的なものなのか合目的的なものなのか、前提となるストーリーがあるのかないのか、曖昧な状態でつくられ、踊られている。

ダンスを見ることについて

このワークインプログレスを見るにあたって、見えない人がダンスを見るという経験を晴眼者の自分も疑似体験できるのでは、というようなイメージを最初は漠然と抱いていた。しかし3年にわたって見ても、見えない人の感覚に近づくということには程遠く、むしろその不可能さを認識することとなった。また、一口に視覚障害者といっても、それぞれの人がどのような視覚的イメージを働かせているのかいないのか、そこには無限のバリエーションがあるだろう。晴眼者である自分が目を閉じ、言葉だけで動きをイメージしようとしても、結局記憶に残っている動きの断片的なイメージを言葉と照らし合わせながら、頭の中で再生することになってしまいがちだ。逆に、視覚的なイメージを打ち消そうとしても、それは勝手に立ち上がり、視覚イメージそのものを停止させ忘れることは不可能だ。

聞こえてくる言葉だけからダンスを鑑賞しようとすると、その動きをどう受け止め味わうかではなく、視覚的なイメージを頭の中のスクリーンに正確に再現し、その精度を上げていくことばかりにとらわれてしまう。目を使わずに「見る」ことが、さまざまなイメージを組み合わせて脳内に映像として再生することでしかないのであれば、結局のところ実空間であっても頭の中であっても、あるフレームに囲われた「画面」を見ることから「見ること」を解き放つことはできない。しかしダンスに限らず何かを「見ること」は、そのような狭い平面に限定されたものではないはずだ。それゆえ、このワークインプログレスが再三わたしに突きつけてきた問いは、そもそも目を開けてダンスを見ている時、自分は何を見ているのか、ということである。最終回の発表を見て、自分がダンスを鑑賞するとき、たとえソロダンスであってもダンサーを直視し続けるわけではないことを改めて意識した。床を見ている時もあれば、他の観客の表情に注目する時もあり、自分の手元を見たり、何か別のことを思い出したり、ダンサーの足の動きだけを見ていたり、意識を向ける対象は常に移り変わる。どちらかというと、肝心のダンサーに対してはぼんやりとしたフォーカスを当てているような感覚に近い。ダンスは、集中して見ていなければ一瞬で消え去るものでもあるが、同時に、注視すればするほどその姿を見失うことにもなる。一瞬だけを切り取ろうとすればそれはある時間の幅を持った動きではなくなるし、ある部位だけを見ようとすれば全体の出来事を追えなくなる。

ライト付きの上演の中で見える捩子ぴじんの身体は、空間のどこかからぶらんとぶら下がり、細かく震え、だらしなく溶け出し、不自然に固まる。見るものの注視や把握をすり抜けるように、次々と身体は状態を変化させていく。目で見ていたとしても、観客は共感を持ってダンサーの動きを追うというより、どこへ向かうのか分からない身体と対比する形で自身の身体を思い出すように見ることになるだろう。むしろ、最も持続的に意識し続けることになるのは、鑑賞している自分自身の身体だ。

ダンサーの身体と観客の身体

最終回の大崎清夏による音声ガイドは、振付とダンサーから絶妙な距離を保つものだった。前年までの音声ガイドに比べると、明らかに言葉の数は少なく抑えられ、余白や間が多く取られる。詳細な実況中継がダンスを追いかけるという形ではなく、合いの手のような間合いで言葉がダンスと併走する。

動きと音楽、言葉などによって複合的に演じられる歌舞伎を例にとってみると、歌舞伎の中で伴奏として演奏される長唄は、横断的に複数の役割を担う。ある時は物語の状況を解説し、ある時は登場人物の心情やセリフを代弁し、またある時はBGM的に物語の雰囲気に沿った歌を歌う。歌舞伎における長唄のように、大崎のガイドは、ダンサーを(勝手に)代弁し、外から解説し、寄り添って歌い、ある箇所ではガイドでありながら「読みとれ…ないなあ……」と言葉を濁す。どこかに視点を落ち着けるのではなく、あちこち彷徨いながら答えを見失いながらダンスと対峙する。動きの主体であるはずのダンサーも、“身体”と名指されてはいるが、一貫した人物としては語られない。むしろ、ガイドの中に積極的に登場するのはさまざまな動物や植物だ。それらはダンサーが踊りの中で変容する姿でもあるだろうし、人間という他者を他者の立場から見つめる視点かもしれない。そしてそれはそのまま、客席で見守る観客の視点にも重なってくるだろう。

歌舞伎の上演では、「大向う」という最後部に座っている観客から「~~屋!」「~代目!」などの掛け声が要所要所で役者に向かって掛けられる。この「大向う」は基本的には、観客が上演に自発的に参加するひとつの方法として発展したものだが、それは演じる側にも当然影響を及ぼし、上演に生き生きとしたリズムを与える。客席から呼びかけられるとき、演者は観客の身体にぱっと乗り移るように視点を切り替えることになるだろう。呼びかける観客は、その瞬間自分の身体を出現させ、そこに演者を引き寄せることになる。

「大向う」の掛け声が演出に組み込まれ、それがないと成立しないような作品もあるという。『お祭り』という舞踊演目では、登場した役者は、「待ってました!」という観客からの掛け声を受け、「待っていたとはありがてえ」とセリフを返してから舞踊が始まる。これは、元は役者が即興で返したセリフが、のちに脚本に取り入れられたものだという。このワークインプログレスでは、そのような投げかけられる言葉にあからさまに応答するような振付や演出上の変更は見られなかった。ただ、最終回の上演ではアクティングエリアをぐるりと取り囲むような形で観客は舞台上に座り、ダンサーの動きによる床の振動や音が直接感じられる距離感で鑑賞した。また音声ガイドはイヤフォンで観客だけが聴くのではなく、山下残がライブで読み上げる音声がスピーカーで会場全体に流され、ダンサー自身もそれを聴きながら踊る形となっていた。そのため、ガイドの音声や、声は発さずともすぐそこにいる観客の存在とダンスの間には、嫌でも応答関係が生じていただろう。最終回の捩子のダンスに現れていた細く引きずられるような身体の重みは、そのような応答に要する時間差によって生じたもののようにも見えた。そして、観客としてのわたしは、言葉や動きの余白の中で自由に意識する対象を移動させ、その自由な運動を感じながら鑑賞することとなった。

このプロジェクトでは3年間の試行錯誤を重ね、ガイドの中でのさまざまな語り方、描写の仕方、音声の再生の仕方などを試してきたわけだが、最終的に、音声ガイドも音楽やセリフのように上演の一部となって演じられ、見えない人に向けた特殊な上演というより、通常のダンス公演と言ってもいいものになっていたことは興味深い。このプロジェクトで生み出されたものが「音でダンスを観るための音声ガイド」として完成に至ったのかどうか、わたしには判断できないし、唯一の正解というものもないだろう。ただ最終回の形が、音声ガイドによって踊るものの動機を理解するのでも、詳細な視覚的イメージをつくり上げるのでもなく、自分の身体をもってそれとは異なる身体を見る、自ら踊り直すことでダンスを見る、というシンプルな振り出しに戻って終わったことに、希望を感じた。

神村恵(かみむら・めぐみ)| 振付家・ダンサー。物質として、環境や言葉との関係においてなど、身体をさまざまな側面から観察 、再構築する作品を手がける。近年の主な作品に、『StrangeGreen Powder』(2019年、目白庭園 赤鳥庵)、美術家 津田道子とのユニット「乳歯」による『スクリーン・ベイビー#2』(2020年、TOKAS本郷)、など。