音と振動を介したナレーションと
ダンスの相互行為

早稲田大学文学学術院教授、ほそまひろみち

今回の「音で観るダンスのワークインプログレス」では、これまでとはいくつかの点で異なるやり方が試みられた。

ひとつは、音声をあらかじめ吹き込むのではなく、その場でダンスを見ながら朗読するという試みだ。あらかじめ録音された音声は、想定されるダンスの進行に沿って行われるものの、実際のダンスに生じる微細な時間のずれと関わることはできず、一方向的に語り続ける。一方、その場で行われる朗読は、踊る身体を見たり身体の鳴らす音をきくことによって、次に起こるであろうことと朗読の内容との時間関係を微細に調整することになる。またダンスをする側も、その場で鳴っている音声をきくことで、自身のダンスのタイミングを無意識のうちに前後に揺らすことになる。つまり、その場で行われる朗読とダンスの間には時間的な相互行為が起こりうる。

もうひとつは、観客がひな壇状の観客席からダンスを鑑賞するのでなく、ダンサーと同じ床に座って鑑賞するという形をとったことだ。そのことで、ダンサーの床を踏む音、床を擦る音、足と床の接触によって起こるさまざまな音が、振動となって観客に伝わることになった。これらの振動は、衣擦れや柏手、そしてイヤフォンから入ってくる音声ガイドといった聴覚刺激とともに、見えない人にとっては、これまでにない音の場の体験となったに違いない。

これら二点の問題、すなわち、ダンスと朗読の相互行為、そしてダンスのもたらす聴覚・触覚的な刺激と聴覚的な音声ガイドとの関係について、以下では実際のダンスの場面から、考えるべきポイントを挙げていこう。

踊り出すまで・踊り出してから

これまでとの違いは、冒頭で早くも顕わになる。これまでは捩子ぴじんが暗がりでスタンバイしている状態で、踊りに先立って何らかの前口上を設けて、まだ何も見えない舞台に、ことばのイメージをインストールすることが多かった。たとえば捩子ぴじん自身が2017年度に自らの踊りにつけたナレーションはこんな具合に始まる。「体は水が入った袋、水の中に、内蔵や骨が、浮かんでいる。頭のてっぺんを糸で吊られている。糸が引っ張られて体がバウンドする」。

しかし、今回はこのような、身体の発する音を先取りするようなナレーションは冒頭にはない。捩子ぴじんが黙って登場する。その彼の静かな足取りは、床の振動となり、きく人に、彼が登場した気配となって伝わる。

こつこつと鼓のような音が二度して、それに呼応するようにとんとんと床を跳ねる音が二度起こる。このこつこつととんとんの対応も、これまではどちらかといえば、音と視覚的な飛び跳ねとの対応として感じられた。しかし今回は、音と音の対話としてきこえてくる。

そこにナレーションが割って入る。

「身体がひとつ/跳ねている/自分の内の/水の巡りを/たしかめて」

山下残のナレーションは、最初、慎重なタイミングで、単純な音との対応を微妙に避けている。まず捩子ぴじんが、こつこつという音と対応してとんとん跳ねたのを見計らって「身体がひとつ」と言って、区切る。調子のよいナレーションなら、次のこつこつという音を待ってすかさず「跳ねている」と、かぶせるように続けるだろう。しかし、山下残はこつこつとんとんを一度スルーする。そして次のとんとんで、タイミングをはぐらかすようにようやく「跳ねている」と言う。では、次のフレーズも同じように、こつこつとんとんを一度スルーかと思いきや、今度は前のめりに「自分の内の」と、とんとんに先んじるように発声する。

そして、「水の巡りを」で、山下残のナレーションは突如スロウダウンし、捩子ぴじんのとんとんに沿い出す。最後に「たしかめて」では、「た」で一回目のとんと同期し、「て」で二回目のとんと同期し、明らかに調子づく。

この導入によって、わたしたちは、音声ガイドを、単に内容を説明することばとしてではなく、捩子ぴじんの出す音のタイミングと戯れる、音の試みとしてきくことになる。

ことばが動作の繰り返しを更新する

ナレーションのことばの内容が明らかになるタイミングは、多くの箇所でダンスの内容よりも遅い。たとえば、「力を抜いて/前へ運んで/少し痩せた/蛙のように/跳ねている」という一節は、すでに捩子ぴじんが腕と肩の力を抜いて前へ蛙のように飛び跳ね始めたあとから、ゆっくりと、持続する彼の飛び跳ねにあわせて語られる。

興味深いのは、ダンスが同じ運動を繰り返す一方で、その運動を形容することばが、繰り返しごとに更新されていくことだ。たとえば最初は、とんとんと飛び跳ねる音は「力を抜いて」ということばとだけ結びつく。そこに「前へ運んで」ということばが加わる。「少し痩せた」ということばまで加わるとき、その「痩せた」主体は何だろうかと、受け手は予想をし始める。そこに「蛙のように」という新しいイメージがくる。こうして、繰り返される飛び跳ねは、次第に意味のレイヤーを深くしていく。

今回のナレーションは、ことば数が少ないがゆえに、この、意味のレイヤーの積み重なりの過程がはっきりする。山下残は基本的に、次のアクションの繰り返し単位が起こるまでフレーズを足さない。であるがゆえに、まるで捩子ぴじんが動作音を出すごとに、新しい意味の積み重なりが呼び出されているかのようにきこえてくる。

今回のバージョンでは、飛び跳ねる音だけでなく、さまざまな身体の動きが床の振動となって観客と共有されている点にも注意しよう。たとえば捩子ぴじんの身体が細かく震える場面。足のふるえは低震動となって床座りしている観客をも震えさせる。おもしろいのは、この震えに至るナレーションだ。ナレーションは、震えの記述を、床に接する足から始めてゴスペルの「ドライ・ボーン」のように、上に向かって告げていく。「はだしの上の/ずぼんの上のTシャツが/波打つ」。これらの声と同時に、飛び跳ねる足音は次第に間をつめて、細かい震えへと変化していく。その結果、震えは単に踊り手の足下だけの(観客にとっては、床に接した自分の足裏や腰だけの)できごとではなく、からだの上部に向かって拡張されてゆく。つまり、ナレーションを介することによって、足踏みの間が詰まり震えとなることが、振動が身体全体に行き渡ることとして表現されているのである。

ことばが自律する

ことばがダンスに遅れながら、持続するダンスの動きの意味を重層的に更新していく。この関係が変化するのが、中盤の「押し出す空気と床」「柏手」の部分である。ここで、ナレーションは、ダンスに先んじてダンスの身振りを言い当てる。「押し出す空気と床」と告げられたあとに、だん、だん、と大きな足踏みの音がする。「柏手」と告げられたあと、ぱんと大きく晴れやかな拍手の音がする。

ナレーションが先んじる原因となっているのは、その速度である。それまで一区切りずつ、あたかも次の動作を待つかのように告げられてきたナレーションは、「…をやめてぐっと突き出す足の骨」から、畳みかけるように一気に長いフレーズを繰り出す。「腕いっぱいに空気を抱えて/ぐるっと見まわしいそいそ味わう晴れやか気分/蛸に憧れて回転/盆踊りの記憶/短距離走のスタート地点を/ぶらっ……と羽ばたき両手両足踏ん張り/押し出す空気と床」。ことばは、そのスピードによって自律的になり、ダンスとは異なる時間を歩み始める。そして、「押し出す空気と床」というフレーズ自体が、まるでそこまでの言葉の勢いに「押し出」されたかのように吐き出され、それに遅れて踊り手の足踏みが鳴る。ここにいたって、ダンスに遅れてナレーションが「解説する」という、ダンスとナレーションの主従関係は逆転し、ナレーションは、むしろことばの流れによってダンスを先取りし、次のダンスの一手を決めるかのように振る舞いだしている。

そして、ことばはついにはダンスから独立する。その瞬間が「柏手」である。山下残の「柏手」ということばは、もはや矢継ぎ早に繰り出されることばの勢いにまかせた声ではない。ぽつんとそこに置かれるように発せられる。そして声は、捩子ぴじんの両手が手を打つべく近づき始めるよりも早く始まり、実際に手が打たれるよりも早く終わる。そのことで、あたかもナレーションの声を合図にして手が打たれたかのように聞こえる。

かくして、わたしたちは、今回のバージョンの前半部において、ダンスとナレーションの前後関係を、音のドラマとしてきくことになった。それは捩子ぴじんの身体と床との関係が、音と振動によって、聴覚/触覚的できごととなっていたからこそ成り立ったことである。

からだは二度降る

中盤以降のダンスでは、床のあちこちが踏みならされる。音はあちこちで方向を変えながら鳴るようにきこえるが、それが果たして二本の足で互い違いに踏まれているのか、それとも不規則に踏まれているのかは明らかでない。そのため、自在に踏まれるその足音の振動から捩子ぴじんの運動がいかなるものかを読み取るのは容易ではない。

ここで、ナレーションは、その激しく続く足踏みにききいるかのように、訥々と次のフレーズを足していく。そのため、ことばの区切れ目がどこなのか、わからなくなる瞬間がある。たとえば「地面の固さを踏みしめて/身体は耕し耕され/平らな乾いた土に降る/ぼたぼた重い雨になり」の部分がそうだ。途中の「降る」ということばは、テキストの上では連体形に読めるのだが、ここで山下残は「降る」で大きく間を開けるので、あたかも終止形のようにきこえる。すると、からだがまるごと、平らな、乾いた、土に降るように思われ、激しい足音がそこにかぶさる。きく者は、ひととき、大きな身体が「耕し耕され」たたみいわしのようになったあと、地面にたたきつけられるようなイメージを持つ。このイメージは、しばしの間のあと「ぼたぼた重い雨になり」と続くことばによって、今度は液体と化したからだのイメージへと更新される。わたしたちはいわば、異なる形で二度降るからだをきくことになる。

では、その液体と化したからだはどこに降るのか。ナレーションは、ようやく、そこに方角を与えるように告げる。西へ東へ、未来へ過去へ。

観る者がたてる音

終盤、捩子ぴじんが床に腰を下ろすあたりから、彼の身体はほとんど音を立てなくなる。身体がゆっくり平たくなり、ついには床に仰向けになるその過程は、ナレーションでは語られるけれど、もうダンサーの身体は音を立てない。ただ、観客が座り直す音、そして遠くで盲導犬が、何かの気配に反応したのか尻尾かなにかを動かす音が聞こえる。それらの音もまた「音で観るダンス」の中に組み込まれている。

そして、最後に、興味深い音が鳴った。それは咳払いである。

ナレーションがなくなり、音が消える。しばらくすると、照明が暗転する。すると、あたかも終演を察知したかのように、あちこちから咳払いが聞こえ出す。この咳払いは、おそらく、視覚的な暗転に対する反応だろう。しかし、耳できいている人にとっては、この、目でダンスを観ている人の咳払いこそ、終演を告げる手がかりとなるのである。ここには、目で観る人の反応自体が、聴覚的なできごととなって「音で観るダンス」に区切れ目を入れる。そういうことにも、今回は気づかされた。

細馬宏通(ほそま・ひろみち)| 早稲田大学文学学術院教授。専門は声と身体動作の分析、視聴覚文化研究。著書に『ELAN入門』(ひつじ書房)、『絵はがきの時代 増補新版』『二つの「この世界の片隅に」』『浅草十二階 増補新版』(青土社)、『介護するからだ』(医学書院)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)など