ダンスの代わりの
言葉なんて書けるのだろうか

えんげきさっか、しょうせつか、おかだとしき

今回わたしがやったのは、ダンスを言葉へと鑑賞体験のレベルにおいて翻訳するということだったと思っている。また、ダンスに対してというよりそれの上演される時間に対して重ねあわされるべき言葉をみつけていく作業をやったのだとも思っている。とてもおもしろい経験だった。

ダンスを言葉にするというのは、言葉でダンスを説明することにもなってしまいかねない。野暮となりかねない。そうした危険をあえて冒すというのは、楽しかった。

ダンスと言葉の関係について、ダンスの言葉への翻訳という具体的作業を通して考える機会を得ることができたのもよかった。ダンスと言葉の関係には、一筋縄にはいかないところがある。ダンスを豊かにするために、言葉は機能しうるはずだが、一方でダンスには─これはどちらかといえばダンスの側の人間というよりも言葉の側の人間であるわたしが、ときどきダンスに、そしてダンス側の人から受ける印象だけれども─言葉で説明されてしまうこと、解釈されてしまうこと、言葉によって台無しにされてしまうことへの強い警戒心もある。

ダンスが言葉に置き換えられるわけがない。わたしだって、それはそうおもう。だから、できるはずのないことをやるという作業に取り組んだのだった。それが、ものすごくおもしろかった。

言葉へと翻訳するために、原作、であるところの捩子ぴじん氏の 10分ほどのダンス作品の動画を、繰り返し繰り返し、見た。はじめの数日間は、ただ一日に一度その動画を視聴する、というだけだった。どんな言葉をここに重ねていくのがよいのか、そもそも、どのような言葉をここに当てていくのが、翻訳、になるのか、皆目見当がつかなかった。それに最初は、ダンスを言葉にしていくことに対して、腰が引けてもいたともおもう。

けれどもいつまでもぐずぐずと腰が引けたままでいても、しかたがない。だから上演の時間を、視覚によってダンスをとらえることのできる人が得る経験と拮抗しうるだけの経験を、視覚を持たない人が、ある言葉を聞き、その言葉によって促される想像とともにその上演時間を過ごすことによって得られることにとにかく第一の価値基準を置いて、言葉をみつけはじめた。ダンスを言葉で解釈してしまうのを、恐れるのをやめた。

たとえば作品の冒頭のほうで、捩子氏が全身の力の抜けた状態で舞台奥のほうに立ち、軽くジャンプしながら前へとやってくる、というときの様子を、わたしはくらげに喩えて、以下のようなテキストを書いた。

[……]奥のくらがりのほうから、少しずつ、はい、前にやってきて、姿を少しずつ、舞台の中のほうに、現してくるんですけれども、ふわあっとやらかーくジャンプしながら、くらげみたいな感じとでも言えばいいでしょうかね、踊る人は今日は足は裸足で踊るんですけれども、ですからおそらく今、ペタンペタン、っていう、足の裏が着地する音が、聞こえてるんじゃないかとおもいますけれども、[……]

これは、わたしがそれをある程度において、くらげのようだと解釈したということであるが、同時に、これは決して、わたしが捩子氏がその踊りをしているときにくらげを表現しているのだと思っているということではない。これが得策であったかどうかについては、百パーセントの確信は、ない。その上演に立ち会った、視覚に障害を持つ人のなかには、くらげみたいな感じ、と言われても、くらげがどのような見た目をしたどのような動きをするものなのかを見たことのない人だっているだろうから。わたしは、上演会場に立ち会う彼らが、舞台上で行われる踊りを目で捉えるわけではないということ、しかし劇場の中でパフォーマンスに立ち会う臨場感や舞台上で床を踏みしめたりする際に起こる音は捉えるということ、そのことを念頭に置き、その状況に対して重ねあわされる言葉としてなにがよいか、何がおもしろいかを想像し、それだけを大事にして─あとは、くらげを見たことがない人にくらげみたいな感じ、という言葉が機能するということだってもしかしたら起こりうるかもしれないという、ほとんど神頼みのような無責任な望みも少しだけ抱きつつ─テキストを書いた。

ダンスを翻訳したものとしてのテキストを、書きはじめられる気がしてきてからは、一日につき一分ぶんずつ書いていった。書いてみては、動画を再生したのにあわせて自分で声を出して読み上げてみて、うまくいっているかどうか検討した。翌日は、次の一分ぶんを書いたわけだが、同時にそこまでに書いたテキスト全体をふたたび検討するという作業も行った。ダンスというのは、繰り返し見れば見るほどに、それまで見えてこなかったディテールが見えてくるものだけれども、新しいディテールが見えてくればそれに従ってテキストも書き直していった。

ダンスそのものを見る行為にあわせてそのテキストも聞くのがおもしろいということと、読み上げられたテキストという音声を聞きながら上演に立ち会うことが、舞台上のダンスを見ることなしにでもそのダンスを鑑賞するということになり、かつそれがおもしろいということとは、重なりあう部分も多いだろうけれども、完全に一致するものではないだろう。テキストを書いていてときどき、これはこれでおもしろい、しかしこれはダンスを見ながら聞く言葉だからおもしろいというのでしかないのでは、というものを書いてしまっているときがあった。それにふとしたはずみで気がついては、そこを改めていった。そのテキストが、ダンスとからみあってのみ機能するのではない、テキストそれ自体で独立したダンスでもあるようにと。

岡田利規(おかだ・としき)|1973年横浜生まれ、熊本在住。従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。主な受賞歴は、『三月の5日間』にて第49回岸田國士戯曲賞、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』にて第2回大江健三郎賞。主な著書に『遡行 変形していくための演劇論』、『現在地』(ともに河出書房新社)などがある。2016年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を3シーズンに渡り務めた。