音声の運動、ダンスの運動

にんげんこうどうがくしゃ、ほそまひろみち

本企画では、ひとつの踊りに対して三種類の音声ガイドを付すというユニークな試みが行われている。

この試みは、視覚障害者の人たちのために音声ガイドをつくるという目的を持っている。だが、それは、音声によってダンスをひたすら描写しようという試みではないことにまず注意しておこう。例えばフィギュアスケートの音声ガイドを聞くとき、私たちはそこで唱えられる技の名前からその動きを想像することができるし、それがいくつかのジャンプやスピン、ステップで構成されているであろうことをあらかじめ予想できる。しかし、ダンスはいくつもの名状しがたい体の動きによってできており、あらかじめどんな構成なのかを予想することはできない。ダンスで起こる主要な身体動作を音声によってリアルタイムで記述することは不可能である。そもそも何が主要な身体運動なのかを予測することすら難しい。音声ガイドのみによって眼前のダンスを聞き手の頭の中に再現しようとしても、その試みは失敗に終わるだろう。

むしろ、この企画で企てられているのは、ダンスの動きから音声を引き出し、何らかの物語を紡ぎ出すことだろう。その物語がどのようなものであるかを考えるには、音声ガイドがダンスをいかに巧みに描写しているかに注目するかわりに、音声ガイドがダンスからどのような運動を汲み取ってことば化しているかに注目するのがよい。

そこで、ここでは、捩子ぴじんによって行われたダンスからいくつかの場面を取り出し、その部分にあてられた三種類の音声ガイドを比較体験することによって、ひとつの動作からいかに多様なことばの運動が引き出されうるかについて考えてみよう。

まず、それぞれの音声ガイドの特徴を簡単に記しておこう。

捩子ぴじん自身によるテキストを用いた音声ガイド①では、自身のダンスを生み出している体感イメージの記述をしゅに行われる。ただし、そのイメージはときにダンスを駆動する感情に煽られるかのように、ダンスと並走するかのように饒舌になる。一方、研究会による音声ガイド②は、いわば観察者の視点である。その語りは、体の動きをできるだけ中立的に表現しようとしており、その都度目立って動いている体の部位、あるいは体の一部をひたすら語っていく。やすだのぼるによる語りはひときわユニークである。「わたしは部屋である」という独白から始まるその音声ガイド③は、「部屋」という語り手が、体の内部で蠢く踊り手に身もだえする物語として聞くこともできる。そして、能楽の謡を思わせる声は、あとで述べるように、その時間構造によってダンスの時間構造とあちこちで交わっている。

では、まずは冒頭、捩子ぴじんがその場で軽く跳躍する場面で、三者がどのような音声ガイドを付しているかを比較してみよう。

ガイド①では、跳躍そのものだけでなく、跳躍の直前に行われるちょっとした動作が「Tシャツの裾をいじる」という具合にことば化されている。一度きりではない。繰り返される跳躍でも、跳躍前のわずか 1、2秒の準備動作は必ずことばにされている。例えば最初の場合は、「Tシャツの裾をいじる」が準備動作、「吊られる、水袋」が跳躍、二回目では、「これはわたしです」が準備動作、「水袋」が跳躍、三回目は、「鼻をかく、唾を飲む」で準備、「水袋」で跳躍。さらには「わたしはここにいます/いません」で準備、「水袋」で跳躍、「わたしはここにいます/いません」準備、「水袋」跳躍、「わたし」準備、「水」跳躍。準備/跳躍を分節する試みは執拗に繰り返され、二つの時間を分節し、リズムを与えている。

しかし、これが必ずしも捩子ぴじんのダンスを分節する唯一のやり方でないことは、研究会の音声ガイド②を聞けばわかる。「Tシャツの裾をいじる」「吊られる、水袋」の部分で、ガイド②は「膝を、柔らかく曲げながら」「跳ねる」と語る。実は「膝を、柔らかく」という箇所では、捩子ぴじんはTシャツの裾をいじっているだけで、膝はまだ曲がっていない。「曲げながら」の部分で初めて膝は曲がり、そのまま跳躍に移る。ガイド②の語りは、Tシャツの裾をいじる時間を、次に記述すべき動作を語る時間として用いているのである。さらに、二回目の跳躍は語られず、三回目の跳躍で「音に合わせてその場で、何度も跳ね続ける」と語る。一つひとつの跳躍を語るかわりに、今起こりつつある動作を一連のものとして捉え、それをまとめて「何度も」と表現している点でも、ガイド①の語りとは大きく違っている。

二つとはまったく異なるやり方で、動作から独自の声の劇を生みだしているのが安田のぼるである。「蠢く」「飛び跳ね」「飛び跳ね」「飛び跳ね」。安田はゆっくりと語る。その内容は、ほとんど「飛び跳ね」という語の繰り返しであり、一見すると準備動作と跳躍動作の区別はないように思われる。しかし、発声のタイミングに注目すると、安田はこれらの言葉を周到にコントロールしていることが分かる。たとえば最初の「飛び跳ね」では、「飛び」は捩子ぴじんの準備動作に重なり、最後に伸ばされた「び」の母音「i」は跳躍に重なる。一方、「跳ね」は準備に重なるだけで跳躍には重ならない。二回目の「飛び跳ね」では、前半は「とおびい」と引き延ばされこれまた末尾で跳躍に重なる一方、「跳ね」は短く発せられて重ならない。これら「飛び」と「跳ね」の対比的な発声によって、画面を見ながら音声ガイドをきくと、動きを含む「飛び」と静の「跳ね」が交代するように感じられる。同じことは画面を見ずとも、語調だけからも感じられる。「飛び」では語尾が上昇し、「跳ね」では語尾が下降しているからである。

そして、三回目の「飛び跳ね」では「飛び」と「跳ね」の関係が変化する。「とおびい」のみならず「はあねえ」でも跳躍の瞬間が重ねられるのである。この変化は語調にも表れている。さきほどまで語尾が下降していた「跳ね」は、「はあねえ」と語自体が引き伸ばされるばかりか、語尾まで上昇するからである。こうして、三度繰り返される「飛び跳ね」は、「飛び」と「跳ね」のタイミングや語調を微細に変化させながら、声独自のドラマを動作から引き出しているのである。

三者の音声ガイドの特徴を考えるために、もう一箇所、例えば、序盤から中盤に移る部分、捩子ぴじんが膝をくの字に曲げたままヨタヨタと歩き出す部分で、それぞれの音声ガイドがどのようにその動きを表現しているか見てみよう。ちなみにこの場面では捩子ぴじんは裸足で床を強く踏みながら歩いており、その足音が聞こえるため、音のみでもおおよその足どりの速さがわかる。

ガイド①:関節よじれて変な顔、白目。鼻の穴広げる、全身歪めてリズムをバカにする。いっちにいさんしいいっちにいさんしい。お尻の穴を閉じたり開いたり。よだれが垂れる。リズムにのって、ふざけた穴に入っていく。いっちにいさんしいいっちにいさんしい。バカが歩いている。すがすがしいバカ、バカのすがすがしさ。

ガイド②:おぼつかない足どりで、酔って、痙攣したように見える。舞台左奥を曲がり手前に進み、舞台手前で右に曲がる。中央を過ぎ、よたよたと進み続ける。奥へ曲がる。四角い渦を描くように中心へ移動。前を向く。8.4秒のま。

ガイド③:今度は背中を横断する。恐る恐る、横断する。2.5秒のま。またまたお腹に進む。踊りながら、進んでゆく。1.3秒のま。へその周りをぐるぐる回る。

まず、目に付くのはそれぞれの視点の違いが明らかに表れていることだ。ガイド①の音声ガイドは、捩子ぴじんの主観から語られており、どのようなイメージが動きを駆動しているかが主に語られている。「リズムをバカにする」「リズムにのって、ふざけた穴に入っていく」「すがすがしいバカ」などは、第三者が動きからイメージしただけではたどり着けそうにない表現だ。これに対し、ガイド②は、外側から見える動きを姿勢、場所を簡潔に語っていく。面白いのは、動作にさほどの変化がないと見ると、ガイド②はしばらく止むことである。一方、安田のガイド③は先に記したように、「部屋」という語り手が、体の内部で蠢く踊り手を感じながら語っている。そのため、捩子ぴじんの居場所はすべて体としての部屋の内部、「背中」「腹」「へそ」に置きかえられていく。

ガイド①とガイド③の視点の違いが最もよく現れているのが引用部分の後半だ。ガイド①が「バカが歩いている、清々しいバカ」とそのイメージを語っているのに対し、同じ動きをガイド③は「ヘソの周りをぐるぐる回る」と表し、体内での出来事に変換している。ちなみにこの部分ではガイド②は沈黙を保っている。

ガイド②とガイド③の語りは、ことばの量だけみるならばほとんど違いはない。しかし両者の時間構造ははっきり異なっている。その違いは、捩子ぴじんが歩みの方向を90度変更する箇所によく表れている。ガイド②が、捩子が曲がる直前にすばやく「前を向く」と進行方向の変化を予告しているのに対して、ガイド③は、ただ「進んでえゆく」と言う。ことばの内容自体には進行方向の変化は表れていない。しかし、よく聞くとちょうど捩子ぴじんが体の向きを 90°変えるそのときに、声は「進んで」の語尾を引き延ばし、ゆっくりと「ゆく」へと変化している。そこで体の動作がなにがしかのタメを必要としたことを、声の時間構造によって伝えているのである。安田はここでも、語の内容ではなく、語の音声的な特徴を変化させることで、身体動作の分節点をあらわしている。

以上、紙幅の関係で、二箇所についてのみ三者の音声ガイドを比較した。いずれも 30秒に満たない短い部分だが、これらを比較するだけでも、それぞれの音声ガイドがまったく異なるやり方によって眼前のダンスから動きを抽出し、それを語りへと活かしていることがわかる。こうして生まれた音声ガイドたちは、ダンスの聴覚的な情報(足音、体のこすれる音、音楽)と合わさることによって、音声による独自の物語を生みだしている。そして、三つの音声ガイドを往復することによって、捩子ぴじんのダンスは、いくつもの重層的な意味を帯びた細部の連続に見えてくる。声によるガイドは、単なるダンスの解説と捉えるかわりに、むしろダンスを手がかりとした音声のパフォーマンスであり、ひとつのダンスから派生する声のあり方の可能性として捉えるべきなのかもしれない。

ほそまひろみちプロフィール。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は共同作業での会話と動作の分析、視聴覚文化研究。著書に二つのこの世界の片隅に、せいどしゃ。介護するからだ、医学書院。うたのしくみ、ぴあ。ミッキーはなぜ口笛を吹くのか、新潮社。浅草十二階 増補新版、せいどしゃ。など。