音声ガイドは
何を拾い上げるのか?

滋賀県立大学人間文化学部教授、人間行動学者、ほそまひろみち

捻子ぴじんのダンスに対して、 2018年に新たに 3つの音声ガイドがつくられた。この小文ではそれぞれの音声ガイドの特徴について簡単に述べ、比較を行っていこう。

研究会版は、基本的に簡潔な表現によって踊りの動きを記述し、その簡潔さによるリズムを出そうとしている。また、動詞やオノマトペの繰り返しを用いることによって、その部分に漂っているムードを示している。たとえば、「頭の中で揺れている/気持ちの中で揺れている/視線の向こうで揺れている/記憶の底で揺れている」「舞台の端までヨタヨタ歩き/前に向かってヨロヨロと/右に曲がってヨタヨタと/後ろに向かってフラフラと」といった表現はその典型といえるだろう。

研究会版では、微妙な文調の変化によって、それぞれのパートが他のパートからどんな風に変転しているかを表している。一方で、記述は淡々としているので、踊りの細部については聴く者の想像力にまかされている。この塩梅は、踊りを観ながらきくとちょうどよい感じだった。ただし、踊りのあちこちに仕組まれた、もっと長い時間単位の緩急や身振りの対比について、このガイドを通じてどれくらい気づくことができるだろうかという疑問もわいた。

岡田利規版は、聞こえてくる音を手がかりに、そこに踊りの記述を埋め込むという穏当なやり方でまずは始まる。「今たぶんなにかの太鼓みたいな、打楽器的な音が聞こえているとおもうんですけど」という出だしは、まさにこの態度を表している。音楽は耳に聞こえるが、視覚的な踊りは目に見えない。そこでまずは「ふわあっとやらかーくジャンプしながら、くらげみたいな感じとでも言えばいいでしょうかね」と説明が行われる。

それにしてもなぜ「ふわあっとくらげのようにジャンプ」と簡潔に言わないのか。岡田版の特徴は、ある種の冗長さにある。長々とした表現をしている間にもダンスは進んでしまうのだが、岡田はそれを承知でわざとこの冗長な表現を行っている。岡田は、細かい動きをそれぞれ等価値のものとして列挙していくかわりに、「ふわあ」「くらげ」のようなことばを使い、表現に時間を割く。そのことによって、踊りを表すそのことばを覚えやすくしているのだ。そして、この「覚えやすい」という点が岡田版では重要だ。なぜなら、一度登場した踊りは以下のように繰り返し想起することを求められるからだ。

「つい今しがたのスパイ的なすすっと動いてぴたって止まる的な動きがあったじゃないですか、それよりちょっと前の歩くつもりが自分ではないんだけどなんだか歩いちゃってる人ってのを演じてるなみたいなときの動きがあったじゃないですか、あと、それよりもっと前の骨と関節を感じはじめたばかりのくらげが骨と関節をいろいろ動かしてみてるっていうときの動きがあったじゃないですか、そういうこれまでにあったいくつかのことのうちのいくつかを同時にやろうとしていてその結果てんやわんや、みたいになってます」

この例では、過去のダンスの記述を引用し、さらにもう少し過去のダンスの記述を引用し、さらに少し過去のダンスの記述を引用して、それを現在の聞き手の頭の中で合成させるということをしている。聞き手の頭の中で過去が次々と呼び出されて、それがごっちゃにされててんやわんやになる。そういう聞き手の認知の運動がここでは試みられている。それはけしてダンサーの動きの記述そのものではないが、運動の忙しさにおいて、捻子ぴじんの動きと聞き手の頭の中の認知とは似姿となっている。

これは、いま現在起こっている動きをできるだけリアルタイムで細かく伝えようとする方法とはまったく逆の方法だ。岡田版は、正確な記述を目指すかわりに、声の時間によって聞き手の記憶を揺さぶることに注力しているその点で、他の作品とは異なるアプローチを行っている。

わたしが当初、3つのガイドの中でもっとも衝撃を受けたのは志人の作品だった。まず全体がひたすらラップで貫かれているというだけでなく、魂の出産という、ひとつの物語を声によって紡いでいる。それでいて、捻子ぴじんの踊りのディテールから明らかにインスパイアされたものである。声自体の強度ということで言うと、この作品には他の作品にはない圧倒的な魅力があった。

もうひとつ重要な要素は、このガイドが、ラップという、くっきりとした時間構造を持つ形式を用いることによって、踊りの時間構造をあちこちで浮き彫りにしていることである。「なにゆえのあいうえお/かきくけ古今」で始まる、五十音を織り込んだフレーズも、語呂がよいだけでなく、そのことばのリズム、タイミングによって、捻子ぴじんの所作の区切れ目を的確に示している。このような踊りの時間に対する視点は、他のガイドには観られないものである。

一方、このガイドの強固な時間構造は別の効果ももたらしている。実際の捻子ぴじんの踊りを観ると、どういうわけか、この捻子ぴじんの踊りがほうがこのガイドに従属するような息苦しさを感じさせるのである。いや、もう少し正確に言えば、このガイドは、捻子ぴじんのある日あるときのダンスをもとにあまりに正確にそのことばのタイミングを構築してあるので、捻子ぴじんがまるで過去の彼の踊りの時間に縛られているような感じに見えるのである。

むろん、音声ガイドは本来、踊りとともに鑑賞するものではない。もとの踊りからの偏差をリアルタイムでどのように感じるかという問題は、ガイドと踊りを同時に観るといういささか特殊な状況で生じる問題である。しかし一方で、これだけガイドの内容が踊りを覆い尽くしうるということは、このガイドは踊りの特定の可能性を、とても先鋭化した内容を持っていることでもある。

以上、3つのガイドについてそれぞれの特徴を拾い上げてみた。そもそも視覚的なできごとのすべてを人間に知覚可能な音声パラメーターに置き換えることなど不可能であり、だからこそ、音声ガイドでは、目に見えることの何をどう拾い上げるかということが重要になる。唯一最良の答えというのが存在するわけではない。 2018年の上演&トークでは、全盲の方々も交えて、鑑賞後に討議が行われたのだが、実をいえば、音声ガイドの最大の役割は、こうした討議を可能にすることではないかという気がした。音声ガイドをつくり、公開するという試みは、そもそも目で見ることと耳で聞くことの間をどのように架橋しうるのかという問題に対して、わたしたち自身を開いていくことなのかもしれない。

細馬宏通(ほそま・ひろみち)|滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声と動作のやりとり分析、視聴覚文化研究。著書に『二つの「この世界の片隅に」』(青土社)、『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)、『浅草十二階 増補新版』(青土社)など。