ダンス観賞の可能性を開く音声ガイド:
健常者/障害者の二項対立を超えて

愛知県芸術劇場シニアプロデューサー、からつえり

「音で観るダンスのワークインプログレス」finalに参加し、ダンサー捩子ぴじん氏のパフォーマンスと共に、3年間で作成された4種類の音声ガイドを聴く機会をもった。これらの音声ガイドは、それぞれ異なる視点から約10分間のダンスを言語化しており、ダンスを描写する多様な切り口に唸らされた。

それは、この音声ガイド作成のプロジェクトが、言葉で伝えることが難しく、共通点の少なく曖昧な「コンテンポラリーダンス」を対象にしていること、その結果として、どのようなイメージで捉えることも可能な、コンテンポラリーダンス特有のユニークさを体現したバラエティに富んだ音声パフォーマンスが揃ったことが影響しているように思う。

さらにコンテンポラリーダンス作品を提供している公共劇場のプロデューサーである筆者が、音声ガイドを伴うパフォーマンスに関心をもったのは、音声ガイドを作成するプロセスそのものが、ダンスとは何か、ダンスの舞台を観るとはどういうことなのかを問う契機にもなっていたからだ。これまでいく度となく交わされてきた次のような質問への回答には、いつも悪戦苦闘してきたという背景もある。

「コンテンポラリーダンスはわからない」
「ダンス公演では一体何を観ているのか」……

過去2年間で作成されてきた音声ガイドの各特徴が、この問いへのひとつの回答になっているのではないかと思われる。

テキスト1の「ダンサー自身から発せられる身体のメッセージ」
テキスト2の「情報保障としての観客目線のガイド」
テキスト3の「劇作家による身体の描写」
テキスト4の「言葉と音を操るラッパーによる語り」
(仮にテキスト5としておく、前年度にあった能楽師による「場の目線のガイド」)

初年度と次年度を加えた、これら5つのテキスト毎の特徴は、実はわたしがダンス作品を観ている時の視点にかなり近いことも興味深かった。わたし以外でも個人の興味や舞台観賞歴などにより、これらのいずれかを中心に、あるいはこれらの複数のテキスト間を行き来しながら観ている人も多いのではないだろうか。

そう考えてみると、これらの音声ガイドによって、障害のある人のみならず、晴眼者にも実は観ることが困難であった(何を観るのかわからなかった)パフォーマンスの状況が可視化されることは、ダンス観賞の視野を広げることにも役に立つと考えられはしないだろうか。

1では、踊っている感覚に近づけるようにと、観客を「踊りの生徒」に、音声ガイドを「踊りの先生」へと設定し、ダンサー自身がテキストを執筆。(捩子氏が初年度に「ダンスを見ることが、ダンスを踊ることとイコールになって欲しい」1と述べているが、それを体現しようと試みたテキスト)。2では、客観的に舞台全体を注視し、作品全体を相対化することによって、必要不可欠な視覚情報がフラットな状態で提供されている。3では、身体を見据えながら物語を描き、言葉を紡ぎ出すことをプロとする演劇作家・小説家の岡田利規氏がダンスを言葉へと翻訳することを試みている。4では、押韻を駆使した語りによって身体の根源的なリズムや音楽のノリを共有することが可能となっている。5では、舞台空間を意識することによって身体の内に宇宙を投影したかのような感覚を導いている。

作成されたこれら5つのガイドは、互いに補完しあうことで、時間芸術/空間芸術であり、身体をもった人間が実演するパフォーミング・アーツ(ダンス)の総合芸術としての特性を過不足なく反映していると思われた。しかし、これはあくまで健常者である観客のわたしが、実際のダンスを観ながら、ガイドを聴いていた感想に過ぎない。

では、視覚障害のある人には、これらの音声ガイドを聴くことによって、果たしてライブのパフォーマンスを体験したと言えるのであろうか。またこれらの音声を互いにスイッチングしながら聴いたとしても、そもそも5つを同時に聴くことは現実的に不可能である。

それを理想の音声ガイドに限りなく近い状態まで導いたのが、5つの音声ガイドの後に作成された、最終バージョンである。これはまさしくダンス観賞の本質、「体感」をテーマした音声ガイドになっていたと思う。

最終バージョンでは、テキストは詩人の大崎清夏氏が手がけ、朗読をダンサーの山下残氏が行い、観客はダンサーの捩子氏を取り囲んで、床に座って観賞した。

詩人のステファヌ・マラルメは、著書『バレエ』2の中で、舞踊を文字から解放された「詩」であると述べているが、「詩」が明確な物語を表現し得ない抽象的な身体の動きからのイメージの跳躍に最も接近した言葉であること考えれば、テキストの執筆者に詩人を選んだことは至極真っ当であると言えるだろう。またテキストを発話するにあたり、実際の踊り手の動きと発話のリズムをより近い感覚で同期させることができるだろう、同じダンサーの山下氏の声を媒介にしたことにも説得力があった。

その上で、捩子氏を取り囲み、彼の息遣いや動作が空間や床に与える振動を近くに感じながら観賞する体験は、まさしくダンス観賞の本質に迫るものだったと思う。

プロジェクトに参加した全盲の金子氏の「音声ガイドは僕を躍らせるんだ」3という言葉は、「ダンスを観る=体験する」という、ダンスを観賞することの本質をさらに裏付けた。

一方で、実は今回、個人的にもうひとつ嬉しい発見があった。音声ガイドからダンス批評への接続である。

ダンス批評は、舞台評論の中でも難しいと考えられている。最大の理由はダンスの鑑賞方法と同じく、受容者側の共通の手がかりが少ないことによるものだろう。そうした現状の中で、「ダンスを描写すること」を目的とした音声ガイドのテキストは、まさにダンス批評の参考になると思われた。

ダンス批評の第一歩は、舞台の状況を説明し、ダンサーの動きを描写すること。このプロジェクトでは、テキスト2にあたるもので、これだけでも公演を観ていない人に全体像をイメージさせることができる。むしろこれがないと全体像を把握することが難しい。しかし、客観的な描写だけでは、実際の上演の面白さはほとんど伝わらない。これは音声ガイドの議論でも話題にあがっていたように、パフォーマーのエネルギーを伝えることのできるようなグルーヴ感のある描写や、イメージを喚起できるような印象的な言葉や擬音など、客観的なテキストに加え、エネルギーを感覚的に感じられる表現を注ぎ込むことができないと、肝心のダンスのライブ感は伝わらない。これは音声のない文字のみのテキストとしても重要な視点だと思う。

仮に音声ガイドを参考にして、ダンス批評を学ぶというプロセスが成立し、ダンス批評への敷居が下がり、その結果、観ることができなかった人にも本物の舞台を観ているような疑似体験ができるとしたら、それはダンス観賞の裾野を広げ、観客層の拡大に繋がる可能性があるのではないか等々と、妄想が膨らんだ。

さらに、今回のプロジェクト中でキーワードとなっていた「環世界」4の概念は、現代におけるダンス観賞の意義を強く肯定する大変重要な言葉だと思われたので、最後に少しだけ触れておきたいと思う。

哲学者の國分功一郎氏によると、わたしたちの経験している世界は客観的なものではなく、主体的に作り上げられたものであるという。生物がそれぞれ主体的に構築するこの独自の世界を、ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは「環世界」と名付けた。

中途視覚障害者である岡野宏治氏は、インタビューの中で、徐々に視力を失っていったことにより、聴覚や触覚の情報の配分が増加し、視覚の欠落を埋めることで、まったく新たな別の環世界が出来上がっていったことを語っている。中でも「気配」5を感じる感覚が強くなったという話が興味深い。

近代以降、言葉や理論によって構築された世界で、人が視覚優位になったことによって、具体的に捉えることが難しい「気配」、「情動」6、「直観」7などの五感以外の感覚が失われていった。グローバル化・情報化した社会の中で求められる高度なコミュニケーションにスムーズに対応できる能力を持った人間のみが健常者であり、そこに当てはまらないものは障害者としてレッテル貼りされていく現代への違和感。一方で、働かせることによってむしろ生きにくくなってしまう「情動」を健常者は退化させることによって現代社会に適応しようとしていることを、國分氏は指摘している。

となると、近代社会において「感じる」感覚が失ってしまった健常者(むしろ近代以前ではこちらの方が障害者とも言える)が、音声ガイドによるダンスの観賞を通じて、身体に再び耳を澄ますきっかけを得ることができれば、それによって、生物として失われている感覚への扉を開くきっかけに繋がる場合もあるのではないだろうか。

視覚情報を補助するための音声ガイドが、ダンスのもつ根源的な力を白日の下に晒し、ダンス観賞のさらなる可能性を後押ししてくれると感じられた貴重な体験であった。

1.『プロローグ1』

2.「彼女は踊るのではなく、縮約と飛翔の奇跡により、身体で書く文字を用いて、対話体の散文や描写的散文なら、表現するには文に書いて幾段落も必要とするであろうものを、暗示するのだ、ということである。書き手の道具からすべて解放された詩編である」(「バレエ」ステファヌ・マラルメ、渡辺守章訳『ステファヌ・マラルメ全集Ⅱ ディヴァガシオン他』、筑摩書房、2010年)

3.『プロローグ1』

4.『プロローグ2』 岡野宏治氏による哲学者の國分功一郎氏へのインタビューに詳しい。

5.『プロローグ2』

6.『プロローグ2』

7.『プロローグ2』 オランダの哲学者スピノザの言葉。人間の持つ最も高次の知性を対象そのものを把握する「直観」といい、「理性」はその次とした。

唐津絵理(からつ・えり)| 愛知県芸術劇場シニアプロデューサー、Dance Base Yokohamaアーティスティックディレクター。お茶の水女子大学文教育学部舞踊教育学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。10年~16年あいちトリエンナーレのキュレーター。文化庁文化審議会文化政策部会委員、企業の芸術文化財団審査委員・理事、大学講師などを歴任。舞台芸術や劇場の環境整備のためのさまざまな活動を行っている。著書に『身体の知性』など。