何処よりリズムは来たる

DJ、執筆、東京藝術大学非常勤講師、えがいつひろし

「わたしはラップの周辺にこそ、押韻無戒の地に咲く韻律詩の最前線が横たわっているではないかと睨んでいる」
——四方田犬彦1

『音で観るダンスのワークインプログレス』上演 & トークに関連して、特に会場で聞くことの出来た志人による音声ガイド3の前提にあるラップについて、幾ばくかの歴史的事実と考えを記す。

ヒップホップ(ラップ、 DJ、ブレイクダンス、グラフィティ)は一般的にはまずポップ・ミュージックとして知られるようになったが、それ以前、始まったとされる1970年代半ばから長い時が経過しても、ラップ/ DJはニューヨークの都市計画の歴史的な失敗によって引き起され出現した貧困地域の裡からほぼ出ないことにより“それが個人ブランドの商品ではなく、共同体の共有財産として成り立っていたため”2、まるで“民族音楽が極めてゆっくりとしか変わっていかなかった”ようにその原初の形式と機能を当時も保っていた。

韻を踏むことで自慢話や罵倒によってバトルをしたり、もしくはサイファーといって順ぐりに即興で披露したり、ラップが商品化され流通され下位文化として配向され位置づけられる手前の話、文字通り路上においての話である。

もちろん韻を踏むこと自体はヒップホップが生まれたとされるブロンクスの南の子供たち自身らが創造した革新的な文学上のアイデアではなく、“西洋の文化遺産のなかで、もっとも模範的で、もっとも真正で、もっとも深い霊感によって生み出された世俗詩”3であるところのホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』まで遡るのであり、 W-Jオングは彼の著書『声の文化と文字の文化』をその“ホメロス問題”についてのミリマン・パリーの見解から始めてかなりの部分を割いている。

——“ずっと彼の思考を支配していた基本的な公理は、ホメロスの詩においては、「語や語形の選択が([文字にたよらず]口頭で組みたてられる)六脚韻 hexameterの詩形という形態に左右される」ということだった”4。つまり、“ホメロスの詩に特有なほとんどすべての特徴は、口頭で組みたてられるという制作方法によって強いられるエコノミーによるもの”5であり、“ホメロスがブドウ酒のために用いた形容句 epithetは、韻律的にはみな異なっていて、ある句を使うかどうかは、その句がなにを意味しているかということより、むしろその句が置かれる節の韻律上の必要性によって決定されていた”6。オングはこう続ける——『イリアス』や『オデュッセイア』の元となった古代ギリシアの叙事詩の構成は、韻律にあうようにつくられたきまり文句によって導かれていたのである、と。韻律から文学が姿を現したのだ。

最もその初期に書かれたラップ/ヒップホップについて書かれた労作、 1984年に出版された” Rap Attack”7でデヴィッド・トゥープはアフロ・アメリカンの口承文化に古くからあるリズムに乗るお喋りの成り行きとしての 1970年代の貧困地区から生まれてきたラップ /ヒップホップの先祖を、ジャズ・シンガーのスキャット、政治的な演説まで、黒人教会の説教の一節、ラジオDJ/タップ・ダンサー/コメディアンの話し方、監獄の労働歌、縄跳びなど遊び唄などとしている。

しかし、ラップ/ヒップホップは、アフロ・アメリカンのこれら口承事例が単に寄せ集められ恣意的に更新されたのではない。 1994年にブラウン大学のトリーシャ・ローズが指摘したように“電子機器を使用して音を構成するというラップの慣習”は“長い歴史の中で黒人文化がこだわってきた事柄”が複数のターンテーブルと初期のデジタル・サンプラー、リズム・ボックスなどを使用しながらそうした“技術そのものを変容させ”、“黒人音楽・黒人口承形式・技術のハイブリッド”として“脱構築”され同時に“新たな意味を得る”ので、“黒人の文化的優先事項を、洗練された新しい技術手段を使って書き直している”8。トリーシャ・ローズはこう続ける。

「ヒップホップの形式は、テクノロジーの変化および社会と都市空間の問題と、根本的に連動している。ヒップホップが表す怒りは、現代社会の人種差別と、性的・階級的抑圧に起因している。そして最後に、ヒップホップに溢れる歓喜は、様々勢力を覆し、アフロディアスポラの歴史とアイデンティティを肯定する行為から生まれている」9

「経済的財産はあまりなくても、文化的・審美眼的財産を豊穣に持つアフロディアスポラの若者は、ストリートを対決のアリーナとし、スタイルを最高の賞に値するものとした。低所得者用の住宅が減少し、若者には無意味な仕事のおこぼれしかなく、警察官の暴力が横行し、スラムの若者への風当たりが強まる脱産業化以後の都市において、ヒップホップ・スタイルとは、まさに黒人の都市再生策そのものなのである」10また、ポップ・ミュージックとしての書き直しは、階級のアイデンティティとしてのボキャブラリーや言葉遣いにも作用しただろう。

文化的な配向によりポップ・ミュージックはしばしば支配的な文化への批評的な役割を持つが、 1945年以来の合衆国の建築の歴史において都市計画の他に比べようない大失政の落とし子である貧困地域において集められ編まれ、(サウンドと共に/別々に)発話された押韻の決まり文句たちそれ自体が脱中心的な性格を持つ。

ビート/黒人詩人で劇作家のアミリ・バラカはかつてアメリカの“ニグロ文学”11のみならず“アメリカの‘ハイ・アート’でのニグロたちの貢献は、ほんの少数の例外をのぞいて、印象に残る凡庸さ”にあると罵倒した。「特筆すべきは、音楽だけ、とりわけジャズ、ブルース、黒人霊歌、つまりは“ニグロ音楽”のみに、アメリカのニグロの重要かつ深遠な貢献が認められる」12こう彼は断言する。

一方、「作家たちは、いつか自分たちが言語を変えなくてはいけないと理解することを義務付けられている。そして、この国に英語を使うべく生まれてきた黒人作家たちは、言語が彼らの敵によって操作されているという考えを理解するよう義務付けられている」13––まさに最初のグローバルなヒップホップのヒット曲 “Rapper’s Delight”がハーレムの小さな家内制手工業的なレコード・レーベルからリリースされた1979年、ゲイで“黒人作家”ジェームス・ボールドウィンが冒頭をこのように始めた記事をロザンジェルス・タイムス紙に発表した。続けて、ボールドウィンは幼少の彼がシェイクスピアの作品のどこもかしこにも見られる黒という言葉の比喩へ感じた違和感について記している。つまり、ここでいう言語とは英語であり、ここでいう敵とは白人であり、大袈裟もしくは根源的には“もっとも模範的で、もっとも真正で、もっとも深い霊感”に根ざし組み立てられていった構築物=文学に他ならない。アメリカの黒人文学は、ある程度までこうした“もっとも模範的で、もっとも真正で、もっとも深い霊感”に対する挑戦的な脱構築なのであって、リロイ・ジョーンズ自身は若きアフロ・アメリカンの経験をダンテの地獄編の構造と比較する『ダンテの地獄組織』という本を著わし、のちにトニ・モリソンはラディカルな『白さと想像力』を著わした。

アフロ・ダイアスポラ、奴隷貿易の離散の成り行きが作ったコンテンポラリーな世界における構造は、こうした新しい言葉をアメリカという新しい帝国の外側に隈なく分配していった。アフロ・ダイアスポラの文化を世界に運んだのはアメリカの帝国主義なのだ。1980年代に初めに、ヒップホップはまず英国、フランス、そして日本に運ばれた。日本では自国語によるラップの試みが実践され始めた時点以前に、太平洋戦争、朝鮮戦争、そしてヴェトナム戦争が奴隷貿易の存在した歴史の流れが生んだ階級の子弟を基地まで派兵していた。日本人はアフロ・アメリカンと彼らの生活とカルチャーのありかたに実際に接し、その光景はメディアに表象していった。

まだ敗戦の色濃い時代の社会正義や政治へ意識的な日本の大学生の間での黒人霊歌への興味から始まり、1960年代初期の熱を帯びた“ファンキー・ジャズ”ブームと前後しての、ビート詩的な朗読の試みに代表される文学的な、もしくは映像へのアフロ・ダイアスポラの表象の例をほんの少し記してみる。大江健三郎による原作を大島渚が映画化した『飼育』、ボーイフレンドと思しき若きアフロ・アメリカンのポートレートが装丁の全面を飾る白石かずこの詩集『もうこれ以上遅くやってきてはいけない』、直接・間接的にアフロ・アメリカンのカルチャーに触れる幾冊もの五木寛之から石原慎太郎の短編“ファンキー・ジャンプ”までのジャズ小説群、勅使河原宏の映画「サマーソルジャー」・以後ディスコ・ブームと連動した小説、映画、テレビなどがヒップホップの出現以前にあった。日本人にとって、アフロ・アメリカンがアメリカ映画の中だけの自分たちと異なった肌の色の人間と思っていただけなら、日本語のラップは起こらなかっただろうし、ここまで規模は大きくなっていないだろう14

1990年代初めに日本語によるラップの試行錯誤をしていたラッパーや彼らのグループはまだ数えられるぐらいだったが、例えばKGDR(ex.キングギドラ)のラッパー、K DUB SHINEは日本語の“発音自体にそこまで抑揚がなく単語がぶつ切り”と彼がいう日本語で単語単位での押韻を徹底させることにより方法論としてのラップを作り上げていき、そうした成果はラッパーたちのコミュニティにおいて共有されていった。

2000年前後からはラッパーがテレビやラジオに登場することも珍しくはなくなった。特に押韻が徹底されたことによって即興が可能になり、1990年代終わりから行われるようになった“フリースタイル・(ラップ)バトルの大会がテレビなどによって2010年代に音楽好き以外にも知られるようになったことは大きい。

他にも、現在までにシーズン3を終えたインターネット・テレビのタレント発掘番組『ラップスタア誕生!』のコンテスト出場者リストを見ると、アメリカと日本、もしくはカメルーン/フランス/日本、ブラジル/日本などいわゆる“ハーフ”のラッパーが多いことに気がつく。移民の増加という番組の外側の日本社会の現状が映し出されている。2017年に話題を呼び版を重ねている磯部涼のルポルタージュ『川崎』15には、21世紀初めの大きな格差の社会のなか暮らす人々の日々の様子が描かれているが、ラップ・グループ“BAD HOP”のメンバーはその主要な登場人物である。2012年の『高校生 RAP選手権』の優勝者 GOMESSは自閉症を患っていた中学生時代にラップに出会った。同じくバトルの全国大会 ”KING OF THE KINGS”の 2018年度の優勝者GADOROのひきこもり傾向は彼のラップに散見できる。GOMESSもGADOROも例外的なのではない。2000年代以降、インターネット上にハンドル・ネームをラッパーとしての名前とし、自らのラップをアップロードしたりチャットする“ネット・ラップ”シーンの存在がその遠景にある。一方、JRのターミナル駅には必ずあるといわれている自発的にオーガナイズされているサイファーだが、そのうちの一つ、新橋サイファーは参加者のある程度は企業に勤める人々である。また YouTubeに1日1回フリースタイルをアップロードしている BOZというラッパーは“サラリーマン”ラッパーであるとバイオに明記している。

コンテンポラリーなラップが異なる出自、異なる背景、そして異なる物語を持った人々を自らが消費と生産双方の担い手として関係性の美学の実践のなかで繋げていくのは、日本のみ独特の出来事ではない。アメリカでラップ/ヒップホップが巨大になっていった原因の一つとして、 1990年代前半からまずはIVYリーグ出身の白人の若者がその鎖の一部となったゆえで、ポストモダン文学の旗手、故デヴィッド・フォスター・ウォレスがマーク・コステロと共同で著わした『ラップという現象』はその先駆けの一つであることを思い出してもいい。巨大で完全無欠に見えた構築物がラップで無意味になったのではさらさらないが、その小さなプンクトゥムのごとき綻びから新しいリズムで新しい縫い目を見つけていき、形式全体を脱中心的な遠近法で捉えることを可能にしただろう。

『音で観るダンス』を経験することは、何よりもまず “音声解説”というものについて知識を得る機会であった。そして改めて日本内外におけるラップ——正確にはここでは押韻を駆使した“語り” ——の実践が路上でもクラブでもなく舞台上でどのような意味を生産していくのかという興味と同時に、当然、日本内外におけるコンテンポラリー・ダンスの動作とリズムは何を顕しているのか、そしてその双方の解釈の行く先について考えを巡らす契機となった。専門外のコンテンポラリー・ダンスについては措いて、第二次世界戦後のアフロ・アメリカンの文学表現についての先駆者で、白石かずこらと詩の朗読を実践していた詩人・小説家・翻訳家の諏訪優が1963年に記したことを最後に紹介したい16

「ブルースを僕は“人間の内部における生命への赤裸々なあこがれ(これは又身近な現実としての死への対決”ともいえる)という点において、そして又、ブルースのそれ(ことば)は人間の内部的なリズムから生まれ一方では人間に内部的なリズムを認識させたということで現代の詩と関係づけたい」と彼はいう。

「ジャズとの結合とか、その心臓であるブルースから学ぶとかいったけれども、僕としては今の段階では、そしておそらく今後もブルースのこころがほしいのであり、そこから生きたことばの芸術としての詩をつかみとりたいのだ」

リズムは何処より来るのか。ジャズとブルースのもっとずっとあと、リロイ・ジョーンズやジェームス・ボールドウィンの夢見た未来のとば口に私はたまさかいるからこそ、その“内部的なリズム”によって作動する芸術(詩)の“生きたことば”とは、アフロ・アメリカンに生物学上?内在するモノではなく、 W-J=オングが問題にしたように、紛れもなく押韻から来る韻律、即ち文学そのものが生まれる時であると書くことができる。

1.『詩の約束』、四方田犬彦、p.304、雑誌すばる、2017年

2.『モア・ザン・ミュージック』、若尾裕、勁草書房、 1990年

3.『声の文化と文字の文化』、P.45、W-Jオング著、林正寛訳、藤原書店、 1991年。

4.『声の文化と文字の文化』、P.49

5.『声の文化と文字の文化』、P.51

6.『声の文化と文字の文化』、P.51

7.“Rap Attack”, David Toop, Plute Press, 1984.

8.『ブラック・ノイズ』、p.128–130、トリーシャ・ローズ、新田啓子訳、みすず書房、 2009年。

9.『ブラック・ノイズ』、p.112

10.『ブラック・ノイズ』、p.113

11.原文の用語ママ

12.“The Myth of the Negro Literature”, Home, William Morrow Company, Inc., 1966年。拙訳。

13.“On Language, Race, and the Black Writer”, p.140, “The Cross of Redemption”, 2011, Vintage. 拙訳。

14.最も1940年代の加藤周一、中村真一郎、福永武彦らによる“マチネ・ポエティク”運動が否定されたよう外国語に馴染みの薄い日本の知識人層は殊更押韻を好まない。

15.『川崎』、磯部涼著、サイゾー、 2017年。

16.“話かける芸術としての詩”、諏訪優、詩誌『doin』、p.4、1963年。

荏開津広(えがいつ・ひろし)|DJ/執筆/東京藝術大学非常勤講師。主にストリート・カルチャーの領域で国内外にて活動。日本初のラップの展覧会『RAP MUSEUM』(市原湖畔美術館、2017年)にて企画協力、同じ年に神奈川県立劇場で行われたPort Bの『ワーグナー・プロジェクト』にて音楽監督。翻訳『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。